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08.13
Tue


自己責任なんて言葉がはやった時期があった。担保すべきは機会の平等であり、その後は自己責任。あなたが人を信用できないのも、給料が上がらないのも、太っているのも、精神的にまいっているのも・・・

でも、ほんとうにそう?
結果の平等は悪影響しか及ぼさないのだろうか?一億総中流と呼ばれたあの時代は、グローバルIT 時代になって、もうその役目を終えたのだろうか。


所得の高低が平均寿命に影響を及ぼすことは容易に想像できる。所得が高いほど平均寿命は長いだろう。
UCLの名誉教授でもあるリチャード・ウィルキンソンが示したイングランドとウェールズにおけるデータによると、最も裕福な層は最貧困層に比べおよそ8歳も平均寿命が長い。

ではこれを国・地域(以下、国を含めて地域と言う)間でくらべると平均寿命はどのように違ってくるのか。すなわち先程のように、地域内での富裕層と貧困層での比較ではなく、富裕地域と貧困地域との間で比べるとどうなるか。

ウィルキンソンは地域別の一人当たりの国民総所得を指標として、これを比較してみた。

イングランドとウェールズで示されたデータでは、富裕層と貧困層とで明らかに平均寿命が異なっていた。であれば、一人当たり国民総所得の高い地域と低い地域で平均寿命は異なるであろうと考えられる。
つまり、イングランドとウェールズでみられたように、一人当たり国民総所得と平均寿命に相関関係が観察されるのではないかということだ。

しかし、直感に反し結果はNoだった。

イスラエルやニュージーランドよりおよそ2倍も豊かなアメリカやノルウェーでさえも平均寿命はそれらの地域とほとんど変わらなかった。すなわち、一人当たり国民総所得が高かろうと低かろうと、平均寿命との間に相関関係はみられなかったのだ。
所得はある地域社会の中では平均寿命に影響を及ぼし、重要な指標であることに違いないが、他の地域社会と比較した場合には意味の無い指標であるということだ。

なぜなら、人は他の地域の人ではなく、同じ地域の隣人と自分の所得や社会的身分を比較するからだとウィルキンソンは言う。

このような前提に立って、ウィルキンソンは所得格差こそが、平均寿命のような健康面・社会面に影響を及ぼす指標となるのだと主張する。

そして、グラフを描き直す。

横軸は一人当たり国民総所得から所得格差に変える。グラフの左には所得格差の小さい地域が、右には所得格差の大きい地域がくる。

縦軸は平均寿命、子供の算数や読み書き能力、幼児の死亡率、殺人発生率、囚人割合、ティーンエイジャーの出産率、信用率、肥満率、依存症を含む精神病率、そして社会的流動性という10項目を加重無く平均した健康的・社会的指標とする。

するとどうだろう。グラフは所得格差と健康的・社会的指標との綺麗な相関関係を示した。

そして、個々の指標においても、例えば所得格差の小さい日本、スウェーデン、ノルウェーにおいて、信用率すなわち「たいていの人を信用する事ができる」と答えた人の割合は、所得格差の大きいアメリカ、ポルトガル、イギリスのそれよりも高かった。
その他の精神病率、囚人割合、社会的流動性においても同様の、項目によってはそれ以上に強い相関がみられた。

所得格差がその地域の健康的・社会的な面へ悪影響を及ぼすことをデータが示していた。そしてこのことからウィルキンソンは所得格差は是正すべきだと主張する。

しかし、それは所得格差をゼロにすることを意味しない。結果の平等が起こす不利益は、機会の平等が起こす不利益よりも大きいだろう。
データが示すのは機会の平等だけを担保すれば足りるかといえば、そうではないということだ。あまりに大きな所得格差は地域社会に受容しきれないほどの悪影響をあたえてしまう。程度の問題であり、キャパシティの問題であるということだ。

そしてそれを回避する方法も一つではない。
会社から支払われるそもそもの所得にあまり差をつけない方法もあれば、税金によって再配分する方法もある。寄附を促したり、ベーシックインカムを使う手だってあるだろう。
社会の仕組みがまるで違う日本とスウェーデンが、先のグラフで同じエリアにプロットされたことが、所得格差是正による恩恵が方法によらないことを示している。

経済であろうと宗教であろうと、原理主義は強く美しい。自己責任ということばには、強さと美しさ、換言すれば分かり易さが内在している。しかし、その強さ美しさのために排除されるものが存在する。そしてそれは結果の平等にもまた同じように内在するリスクである。
我々がめざすべきは原理主義者の夢見る楽園ではない。混沌としたこの世界に楽園は似合わない。



平等社会平等社会
(2010/03/26)
リチャード・ウィルキンソン、ケイト・ピケット 他

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08.09
Fri


買い物や夕飯はもちろん、進学、就職、結婚から相続や一生の終え方まで僕たちの人生は選択で埋め尽くされている。これまでの無数の選択によって人生がつくられてきたのは紛れもない事実だ。たまに、あの時こうしておけばなんて考えることもあるけど、僕らはまだ過去にさかのぼる術を知らない。

人生が選択でつくられているのなら、その選択を決断したのはまさに僕自身である。

でも、もし、その決断が満足するものでなかったとしたら?



心理学者のバリー・シュワルツはあまりに多くの選択肢は人々を無力に、そして不満を感じやすくすると言った。
目の前に次々と現れる選択肢に翻弄され、決断は明日へ、明後日へと後回しにされる。しかし、明日にはまた新しい選択肢が現れ、ついには決断から目をそらしてしまう。
仮にエイヤッと決断したとしても、選ばれなかった選択肢は怨念のように僕らの脳みその片隅にこびりつき、後悔の念を生じさせる。

シュワルツが言っているのは、まだ自分が知らない魅力的な選択肢が世の中に存在するのでは、と疑うことではない。そうではなく、たくさんの選択肢を知っているからこそ生じる無力感や不満を問題にしている。シュワルツは機会費用の概念を用いてそれを説明する。

機会費用は逸失利益とも呼ばれ、ある選択肢を選んだ時に選ばれなかった選択肢(のうちの最善)の価値のことをいう。
例えば、目の前にA案とB案があり、どちらかの案しか選択出来ない場合に、仮にA案を選んだとする。その時に、B案を選択していれば得られるはずだった価値がA案の機会費用となる。そして、機会費用をA案で得られる価値からマイナスすることによって、本当のA案の魅力が判明する。

では、目の前にA案とB案だけでなく、新たにC案が加わった場合はどうだろう。話しがややこしくなってきた。こういうときは数字の出番だ。

仮にA案を選択した時に得られる価値が100、B案で得られる価値が40、C案が70であるとする。この場合、誰だって(合理的な人間なら)A案を選択するはずだ。では、機会費用を考慮した場合のA案の価値はいくらか。

機会費用は選択されなかった選択肢のうちで最善の価値のことをいうのだから、この場合では選択されなかったB案とC案を比べ、より良いC案の70が機会費用となる。
機会費用がわかれば、あとはA案の利潤である100から機会費用の70を差し引いた30が機会費用考慮後のA案の価値となる。

そして、ここにシュワルツの指摘する問題が潜んでいる。

C案が出てくる少し前、A案とB案だけが選択肢だった時、A案の機会費用考慮後の価値を計算すると、機会費用となるB案の価値40を差し引いて60となる。
A案自体の価値は100で変わらないにもかかわらず、C案が出てくることで、機会費用考慮後の価値は60から30へ減少してしまうのだ。

そして、C案より魅力的なD案、E案が現れ続けることで、A案の価値はますます下がる。
万が一A案よりも魅力的な選択肢が現れでもしたら、満足度を下げるどころか、A案の価値はマイナスとなるのだ。

最良の選択だと思い決断したことが、捨て去られた案によってその価値を下げられ、マイナスにされる恐れまである。
こうして、決断しないということが最良の決断となってしまう。

シュワルツは「Official Dogme」すなわち「さらなる繁栄にはさらなる自由を」といった状況に対し、「金魚鉢を割るな」と警告している。

そして、今から2500年前に孔子はこう言った。「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」

それは無責任なオプティミストの言葉ではない。誠実で冷酷なリアリストの言葉だ。



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